イレーネがこの家に滞在してから5日が経過していた。「フフフ……うん。良い具合に焼けたわ」かまどを覗き込んだイレーネは満足そうに頷き、蓋を開けた。途端に部屋中にシナモンとりんごの甘い良い香りが漂う。「完成だわ。私特製のアップルパイが。これならきっと喜んでくれるはずだわ」イレーネはウキウキしながらリビングに行くと、テーブルのセッティングを始めた。「この家で初めて、お友達をお招きするのだから粗相のないようにしなくちゃ」お友達……勿論、ブリジットのことである。今日はブリジットと彼女の友人アメリアを招いたお茶会をすることになっていたのだった――**** ――10時「ようこそ、いらして下さいました。ブリジット様、アメリア様」約束の時間に来訪したブリジットとアメリアをイレーネは笑顔で迎え入れた。「ええ。遊びに来てと言うので、言われた通りに来たわよ。……はい、これはお土産よ」少し照れた様子で、ブリジットはカゴに入った花束を差し出した。「まぁ、これは美しいお花ですね。それに香りもとても素敵です」花かごを受けとったイレーネは笑みを浮かべる。「私は紅茶を持ってきたの。受けとって頂戴」アメリアはツンとした様子でリボンがかけられた紙袋を手渡す。「わざわざリボンまでかけていただくなんて、お気遣いありがとうございます。ではどうぞ中へお入り下さい」イレーネに声をかけられ、2人の令嬢は室内に入る。「ルシアン様から別宅を貰ったと聞いていたけれど、建物の外観は古そうに見えても中は立派じゃないの」リビングに入るなり、ブリジットが室内を見渡した。「ええ、そうね。家具なんかどれも立派だわ」アメリアもブリジットに同意する。「フフフ、ありがとうございます。実はお二人がいらっしゃるので、アップルパイを焼いたのです。アメリア様が下さった紅茶と一緒にいただきませんか?」「まぁ、そんなものが作れるの?」「アップルパイ……悪くないわね」ブリジットとアメリアが頷き合う。「では、今用意してまいりますので、おかけになってお待ち下さい」2人の令嬢は椅子に座ると、イレーネは台所に準備に向かった。「お待たせいたしました」トレーにアップルパイと紅茶を乗せてイレーネがリビングに戻ってきた。「どうぞ、私が焼いたアップルパイです」皿の上には切り分けたアップルパイが乗っている。
正午にお茶会はお開きになった。2人の令嬢はイレーネ特製のアップルパイを手土産に持たされ、満足気に帰って行った。「フフフ……とても楽しかったわ。やっぱり女性同士のお話っていいわね」片付けをしながらイレーネは笑みを浮かべる。『コルト』に住んでいた頃のイレーネは祖父が身体を壊してからは、ずっと働き詰めだった。こんな風に令嬢たちと優雅にお茶会をすることなど無かったのだ。「こういう時間が持てるのも、全てルシアン様のお陰ね。本当に感謝しかないわ」そしてふと写真の女性が気になり、イレーネはチェストに近付くと写真立てを手に取った。そこには美しく着飾り、ポーズを取ったベアトリスの姿が映り込んでいる。「まさかこの女性が有名なオペラ歌手だったなんて……きっとルシアン様はこのオペラ歌手の大ファンなのでしょうね」ウンウンと納得するように頷くイレーネ。呑気なイレーネは、ベアトリスとルシアンの関係を結びつける考えには至らない。「さて、昼食を食べ終えたら畑仕事しなくちゃ」イレーネはベアトリスの写真をチェストの上に戻すと、昼食の準備をするために台所へ向かった。****――14時 今日のルシアンは書斎にこもり、たまっていた事務仕事におわれていた。「ふぅ……何だって、こんなに書類が多いんだ? やってもやってもキリが無い」ため息をつくルシアンにリカルドが話しかける。「執事の私ですら仕事のお手伝いをしているのですから、ボヤかないで下さい。だから以前から申し上げていたのです。どうぞ、秘書をお雇い下さいと。当主になられましたら、もっと仕事が増えるでしょう」「確かにそうだな……」「ええ。何しろイレーネさんのお陰で、次期当主はルシアン様に確定ですから。後はイレーネさんをお披露目し、ご自身の地位を確立するだけですしね」そのとき。ガタガタッ!窓が激しく風で揺れた。「何だ? 今日は随分風が強いな」ルシアンは窓の外に目を向け、眉を潜める。「そう言えば今朝の新聞に書いてありましたが、どうやら今夜嵐が来るかもしれないそうですよ?」「嵐だって?」リカルドの言葉に、ますますルシアンの顔が険しくなる。「ええ、そうですが……それが何か?」「いや、イレーネが心配で……」「イレーネさんなら大丈夫ではありませんか? あの家は作りは古いですが、頑丈ですし、窓には木製の扉まで付い
――19時「風と雨が強くなってきたな……」窓の外を見つめながらルシアンがポツリと呟く。「そうですね。思った以上に嵐が来るのが早かったようですね」ルシアンの仕事が多忙なため、書斎で簡単に取れる食事を並べながらリカルドが返事をする。「イレーネは……大丈夫だろうか」その言葉にリカルドが首を傾げる。「またイレーネさんのことを気にかけていらっしゃるのですか? 確かに私も心配はしておりますが、あの方は肝も据わっているし度胸もありますから大丈夫だとは思いますけど」「……そうだろうか」けれどルシアンには引っかかることがあった。実は2人で『ヴァルト』に行った際、汽車の中でイレーネが語った言葉だった。『私の祖父は、嵐の晩に病状が悪化して亡くなってしまったのです。嵐のせいでお医者様を呼ぶことが出来ませんでした。今も後悔しています』(そうだ……嵐の夜というのは、イレーネにとってトラウマになっているはず……!)ガタンッ!突然ルシアンは席を立った。「ルシアン様? どうされたのですか?」驚くリカルドにルシアンは上着を羽織りながら答える。「食事はいい! すぐに出かける!」「えぇ!? で、出かけるってどちらへですか!?」「イレーネのところに決まっているだろう!? 彼女が心配だ!」「何を仰っているのです!? この天候で馬車を出せるはずありません! もし何かあったらどうするのですか!? それにイレーネさんなら、あの家にいる限り安心ですよ! この程度の嵐ではびくともしない家なのですよ?」ルシアンの身を案じるリカルドは必死で止める。「家にいるからって安心だということは無いだろう!? それに馬車を使わなくても移動手段なら他にあるのさ」ルシアンはニヤリと口元に笑みを浮かべると、部屋を飛び出して行った――****――20時その頃イレーネはソファの上に座り、ブランケットを被って震えていた。嵐は益々酷くなり、木戸にバシャバシャと雨が当たる音が部屋の中にも響き渡っている。その矢先。ガラガラガラ……ッ! ドーンッ!!「きゃああ!!」物凄い雷の音が鳴り響き、イレーネは身体を縮こませた。(怖い……! 嵐の晩に、お祖父様は……!)イレーネの脳裏に祖父が亡くなったときの光景が蘇る。雨風が激しく吹付け、修繕の行き届かない屋敷の中に隙間風が入り込んでいた。ゴウゴウと不
――22時半 あれほど酷かった嵐はいつの間にか止み、落ち着きを取り戻したイレーネはダイニングテーブルにルシアンと向かい合わせで座っていた。「本当に、お恥ずかしい姿をお見せしてしまって申し訳ございませんでした」恥ずかしさで顔を赤くしながらイレーネが謝罪する。「別に恥ずかしいと思う必要は無いだろう? 人は誰しも苦手なものがあるだろうし」イレーネが淹れてくれた紅茶を飲むルシアン。(それに……新鮮な姿も見ることが出来たしな。まさかイレーネにもあんな一面があるとは思わなかった)「ルシアン様も苦手なものってありますか?」「え? お、俺か? そうだな……」生真面目なルシアンはイレーネの質問に真剣に考える。「……ある、な」「本当ですか? それは何ですか?」「祖父だ。どうにも子供の頃から祖父には頭が上がらない。だから正直、イレーネには感心している。まさかあの気難しい祖父を手懐けるのだから」「手懐けるなんて大げさですわ。単に仲良しになっただけですから。それにやはり、ルシアン様のお祖父様なだけありますね。お2人は良く似てらっしゃいます」「え? 冗談だろう? 俺と祖父が似ているなんて」ルシアンは大げさに肩をすくめた。「冗談ではありません、本当に似てらっしゃいます。私をとても心配してくれるところとか」「そ、そうか……?」今のイレーネの言葉にルシアンの顔が赤くなる。「……でも、駄目ですね。私って」不意にイレーネが自分の紅茶に目を落とし、しんみりとした口調で語る。「何が駄目なんだ?」「私、祖父が亡くなってからはずっと1人でした。誰にも頼らずに、強く生きてきたつもりだったのに。まさか自分がこんなに弱かったとは思いもしませんでした」「……」イレーネの言葉に、ルシアンは何と応えればよいか分からず無言で話を聞く。「それが、ルシアン様と出会って……誰かがそばにいることが普通に感じてしまっていたみたいです。誰かに頼ることが当然のように……でもこれでは駄目なのに」その顔はとても寂しげで、ルシアンの胸がズキリとする。「イレーネ……」別にそれでいいじゃないかと言おうとした矢先、イレーネが先に口を開いた。「もっと、しっかりしないといけませんね。来年の今頃にはルシアン様とはお別れして、もとの1人暮らしの生活に戻るのですから」「!」その言葉に、ルシアンの肩
「……本当に、今夜は戻らないつもりか?」夜空の下。車の前でルシアンは真剣な眼差しでイレーネに尋ねる。「はい、戻りません。今夜の嵐でせっかく耕してしまった畑が駄目になってしまったので明日、作業をしたいのです」「だが……もしまた天候が……」「それならご安心下さい、ほら。空をご覧になって下さい」イレーネに言われて顔を上げると、空には満天の星が輝いている。「……綺麗な夜空だ」思わずルシアンがポツリと呟くと、イレーネは笑顔になる。「ね? これだけ星がでているならもう嵐の心配はありませんから」「確かにそうなのだが……なら、俺も今夜ここに宿泊しようか?」ルシアンの脳裏に、涙を浮かべて恐怖で震えているイレーネの姿が浮かぶ。あんな姿を見せられて、ここに1人で残すことがためらわれた。「ベッドは一つしかありませんけど……なら、ルシアン様がお使い下さい。私はソファでも床でもどこでも構いませんから」「何だって? 女性にそんなことをさせるわけにはいかない」慌てて首を振るルシアン。「ですが、私だって雇い主であるルシアン様にベッド以外では休んでもらいたくはありませんわ」「雇い主……」イレーネの言葉に、何故か壁を感じるルシアン。(やはり、イレーネにとって……俺は契約相手としかみられていないのだろうな)じっと見つめるルシアンにイレーネは首を傾げる。「どうしましたか? ルシアン様」「いや、何でも無い。……分かったよ。もう天気は大丈夫そうだからな。帰るよ」ルシアンは車のドアを開けると乗り込み、再度イレーネに尋ねた。「イレーネ。あと何日程でマイスター家に戻れそうなのだ?」「そうですね……3日以内には戻れると思います」「分かった。とにかく……戸締まりだけはしっかりするんだぞ?」「ええ。大丈夫ですわ。ルシアン様も気をつけてお帰り下さい」ニコニコ笑みを浮かべるイレーネ。「……ああ、それじゃあ」ルシアンはイレーネに見送られながら車で走り去っていった。「……本当に、車というものは早いのね……」あっという間に地平線に消えていったルシアンの車を見ながらポツリとつぶやき……欠伸をした。「ふわぁあああ……眠くなってきたわ。今夜はもう休みましょう。明日は朝から忙しくなりそうだし」そしてイレーネは家の中に入ると、戸締まりをした――****――翌朝パンにチ
2人で庭の後片付けの作業を開始して約1時間後――「ありがとうございます、お陰様ですっかりお庭が綺麗になりました」イレーネがケヴィンに礼を述べた。「いえ、いいんですよ。地元住民として協力しただけですから。それではそろそろ帰りますね」ケヴィンが軍手を外し、帰り支度を始めるのを見てイレーネは声をかけた。「あ、そうですわ。少し、お待ちいただけますか? すぐに戻りますので」「え? ええ、いいですけど?」イレーネはケヴィンをその場に残すと、いそいそと家の中に入っていった。そして数分後、トレーを手にして戻ってきた。「これ、ほんのお礼です。どうぞ」トレーの上にはグラスに注がれた飲み物に、スコーンが乗っている。「え? 頂いてもよろしいのですか?」「はい、これはミントティーです。疲れた身体にいいですよ? こちらのスコーンも私のお手製です」するとケヴィンが笑った。「アハハハハッ。大丈夫ですよ、僕の職業をお忘れですか? 警察官で体を鍛えていますからこれくらい、どうってことないです。でも折角なのでいただきますね」「ええ。どうぞ」ケヴィンは早速グラスを手に取ると、ミントティーを口にした。余程喉が渇いていたのか、そのまま一気に飲み干しとグラスをトレーに戻した。「さっぱりした味で美味しいです。ありがとうございます。あの、スコーンはお土産に頂いて帰ってもいいですか? 家に帰ってからの楽しみにしたいので」「それでしたらもっと持って行って下さい。まだ沢山ありますので。今取ってまいりますね」「い、いえ。何もそこまでして頂かなくても……」しかしイレーネは最後まで聞かずに家の中に入ると、今度は紙袋を手に戻ってきた。「どうぞ、ケヴィンさん。5個差し上げますわ」そして笑顔で差し出す。「え? そんなに頂いてもいいのですか?」「ええ、勿論です。ケヴィンさんには今までにも色々お世話になっておりますから。どうぞお持ちになって下さい」「……どうもありがとうございます。では、遠慮なく頂きますね」顔を薄っすら赤らめながらケヴィンは受け取った。「それでは僕はこの辺で」「はい、今日は本当にありがとうございました」ケヴィンは馬にまたがると、イレーネを見つめる。「イレーネさん」「はい。何でしょう?」「今日は……一緒に働けて楽しかったです。それでは失礼しますね」「え?
あの嵐の日から、早いもので3ヶ月が経過していた。イレーネは半月に一度は、リカルドから譲り受けた家に通うようになっていたのだった。「それでは、今日もあの家に行くつもりなのか?」朝食の席でルシアンがイレーネに尋ねる。「はい、行ってきます」笑顔で返事をするイレーネ。「だが、何もそんなに頻繁に行かなくても……」言葉をつまらせるルシアンにイレーネは理由を述べた。「あの家は空き家ですから、定期的に訪れて管理をしないと家の維持は難しいですから」「そうか……」正直に言うとルシアンは、イレーネにあまりあの家には通って欲しくは無かった。その理由はただ一つしかない。「心配しなくても大丈夫です。明日にはまた戻りますので」「……分かった。なら気をつけて行くといい」「はい、ルシアン様」イレーネは笑顔で返事をした。**** イレーネは今夜の食材を買うために、1人で町に出てきていた。「えっと……バターは買ったし……あ、そうだわ。ドライフルーツを買わなくちゃ。今夜はレーズンパンを作るんだったわ」買い物メモを確認すると、イレーネはポケットにしまった。「それにしても、今日の駅前は凄い人手ね。一体何があったのかしら?」駅前には大勢の人々が集結していた。しかも大騒ぎになっており、警察官たちまで警備にあたっている。「もしかして、有名人でも来ているのかしら?」好奇心旺盛なイレーネは、一度気になったものは確認してみなければならない性格をしている。「ドライフルーツは後で買えるものね……行ってみましょう」そしてイレーネは人だかりの方へ足を向けた。**「皆さん! 落ち着いて! 押さないで下さい!」「道を開けて下さい!」騒ぎの中心から大きな声が聞こえている。「サインして下さい!」中にはサインをねだる声まである。「え? サイン? もしかして有名人でも来ているのかしら?」イレーネは誰が来ているのか、見たくても人だかりが出来ているので確認することも出来ない。そのとき――「あれ? イレーネさんじゃありませんか!」不意に声をかけられた。「え?」驚いて振り向くと、警察官姿のケヴィンが自分を見つめている。「まぁ! ケヴィンさん、こんにちは。偶然ですわね」「こんにちは。もしかしてイレーネさん……見物に来たのですか?」「は、はい……。何事か興味があったの
イレーネがベアトリスをじっと見つめていた時。「サイン下さい!」突然イレーネの後ろにいた男性が前に進み出てきて、ぶつかってきた。「キャア!」小柄なイレーネはそのまま、前のめりに転んでしまった。はずみで持っていた買い物袋も地面に落ち、袋の中からリンゴがコロコロとベアトリスの足元に転がっていく。「まぁ! 大変!」ファンにサインをしていたベアトリスはリンゴを拾うと、イレーネに駆け寄ってきた。「大丈夫ですか?」イレーネに手を差し伸べるベアトリス。「は、はい……ご親切にありがとうございます」その手を借りてイレーネは立ち上がると、次にベアトリスはぶつかってきた男性を睨みつけた。「ちょっと! 貴方はレディにぶつかって転ばせてしまったのに、手を貸すどころか謝罪も出来ないのですか!?」「え? す、すみません!!」ベアトリスにサインをねだろうとした男性はオロオロしている。そんな男性を一瞥するとベアトリスはイレーネに笑みを浮かべた。「申し訳ございません。お詫びの印にサインをしてさしあげますわ。どれにすればよろしいですか?」「え? サ、サインですか!?」そんなつもりで並んでいなかったイレーネは当然戸惑い……ふと、閃いた。「あの、でしたらこのメモに書いていただけませんか?」イレーネは買い物メモをひっくり返して手渡した。「あら? これにですか?」怪訝そうな表情を浮かべるベアトリス。「はい、まさかこのような場所で大スターにお会いできるとは思ってもいなかったので他に持ち合わせがないのです。でも、額に入れて飾らせていただきます!」「まぁ。そこまで言って頂けるなんて嬉しいわ。ではこのメモにサインしましょう」ベアトリスはイレーネからメモを受け取ると、サラサラとサインをして手渡してきた。「はい、どうぞ」「ありがとうございます……一生の宝物にさせていただきますね」「フフフ。大げさな方ね」そのとき――「劇団員の皆様! お待たせ致しました! 迎えの馬車が到着いたしました!」スーツ姿の男性が大きな声で呼びかけてきた。「行こう、ベアトリス」そこへ黒髪の青年が現れて、ベアトリスに声をかけてきた。「そうね、カイン」そしてベアトリスはカインと呼んだ男性と共に、その場を去って行った。「あ〜あ……サインもらいそびれてしまった……」「やっぱりベアトリスは美
イレーネ達が馬車の中で盛り上がっていた同時刻――ルシアンは書斎でリカルドと夕食をともにしていた。「ルシアン様……一体、どういう風の吹き回しですか? この部屋に呼び出された時は何事かと思いましたよ。またお説教でも始まるのかと思ったくらいですよ?」フォークとナイフを動かしながらリカルドが尋ねる。「もしかして俺に何か説教でもされる心当たりがあるのか?」リカルドの方を見ることもなく返事をするルシアン。「……いえ、まさか! そのようなことは絶対にありえませんから!」心当たりがありすぎるリカルドは早口で答える。「今の間が何だか少し気になるが……別にたまにはお前と一緒に食事をするのも悪くないかと思ってな。子供の頃はよく一緒に食べていただろう?」「それはそうですが……ひょっとすると、お一人での食事が物足りなかったのではありませんか?」「!」その言葉にルシアンの手が止まる。「え……? もしかして……図星……ですか?」「う、うるさい! そんなんじゃ……!」言いかけて、ルシアンはため息をつく。(もう……これ以上自分の気持ちに嘘をついても無駄だな……。俺の中でイレーネの存在が大きくなり過ぎてしまった……)「ルシアン様? どうされましたか?」ため息をつくルシアンにリカルドは心配になってきた。「ああ、そうだ。お前の言うとおりだよ……誰かと……いや、イレーネと一緒に食事をすることが、俺は当然のことだと思うようになっていたんだよ」「ルシアン様……ひょっとして、イレーネ様のことを……?」「イレーネは割り切っているよ。彼女は俺のことを雇用主と思っている」「……」その言葉にリカルドは「そんなことありませんよ」とは言えなかった。何しろ、つい最近イレーネが青年警察官を親し気に名前で呼んでいる現場を目撃したばかりだからだ。(イレーネさんは、ああいう方だ。期間限定の妻になることを条件に契約を結んでいるのだから、それ以上の感情を持つことは無いのだろう。そうでなければ、あの家を今から住めるように整えるはずないだろうし……)けれど、リカルドはそんなことは恐ろしくて口に出せなかった。「ところでリカルド。イレーネのことで頼みたいことがあるのだが……いいか?」すると、不意に思い詰めた表情でルシアンがリカルドに声をかけてきた。「……ええ。いいですよ? どのようなこと
イレーネが足を怪我したあの日から5日が経過していた。今日はブリジットたちとオペラ観劇に行く日だった。オペラを初めて観るイレーネは朝から嬉しくて、ずっとソワソワしていた。「イレーネ、どうしたんだ? 今日はいつにもまして何だか楽しそうにみえるようだが?」食後のコーヒーをイレーネと飲みながらルシアンが尋ねてきた。「フフ、分かりますか? 実はブリジット様たちと一緒にオペラを観に行くのです」イレーネが頬を染めながら答える。「あ、あぁ。そうか……そう言えば以前にそんなことを話していたな。まさか今日だったとは思わなかった」ブリジットが苦手なルシアンは詳しくオペラの話を聞いてはいなかったのだ。「はい。オペラは午後2時から開幕で、その後はブリジット様たちと夕食をご一緒する約束をしているので……それで申し訳ございませんが……」イレーネは申し訳なさそうにルシアンを見る。「何だ? それくらいのこと、気にしなくていい。夕食は1人で食べるからイレーネは楽しんでくるといい」「はい、ありがとうございます。ルシアン様」イレーネは笑顔でお礼を述べた。「あ、あぁ。別にお礼を言われるほどのことじゃないさ」照れくさくなったルシアンは新聞を広げて、自分の顔を見られないように隠すのだった。ベアトリスの顔写真が掲載された記事に気付くこともなく――****「それではイレーネさんはブリジット様たちと一緒にオペラに行かれたのですね?」書斎で仕事をしているルシアンを手伝いながらリカルドが尋ねた。「そうだ、もっとも俺はオペラなんか興味が無いからな。詳しく話は聞かなかったが」「……ええ、そうですよね」しかし、リカルドは知っている。以前のルシアンはオペラが好きだった。だが2年前の苦い経験から、リカルドはすっかり歌が嫌いになってしまったのだ。(確かにあんな手紙一本で別れを告げられてしまえば……トラウマになってしまうだろう。お気持ちは分かるものの……少しは興味を持たれてもいいのに)リカルドは書類に目を通しているルシアンの横顔をそっと見つめる。そしてその頃……。イレーネは生まれて初めてのオペラに、瞳を輝かせて食い入るように鑑賞していたのだった――****――18時半オペラ鑑賞を終えたイレーネたちは興奮した様子で、ブリジットの馬車に揺られていた。「とても素敵でした……もう
――18時ルシアンが書斎で仕事をしていると、部屋の扉がノックされた。「入ってくれ」てっきり、リカルドだと思っていたルシアンは顔も上げずに返事をする。すると扉が開かれ、部屋に声が響き渡った。「失礼いたします」「え?」その声に驚き、ルシアンは顔を上げるとイレーネが笑みを浮かべて立っていた。「イレーネ! 驚いたな……。てっきり、今夜は泊まるのかとばかり思っていた」「はい、その予定だったのですがリカルド様がいらしたので、一緒に帰ってくることにしたのです」イレーネは答えながら部屋の中に入ってきた。「ん? イレーネ。足をどうかしたのか?」ルシアンが眉を潜める。「え? 足ですか?」「ああ、歩き方がいつもとは違う」ルシアンは席を立つと、イレーネに近付き足元を見つめた。「あ、あの。少し足首をひねってしまって……」「まさか、それなのに歩いていたのか? 駄目じゃないか」言うなり、ルシアンはイレーネを抱き上げた。「え? きゃあ! ル、ルシアン様!?」ルシアンはイレーネを抱き上げたままソファに向かうと、座らせた。「足は大事にしないと駄目だ。ここに座っていろ。今、人を呼んで主治医を連れてきてもらうから」「いいえ、それなら大丈夫です。自分で手当をしましたから」イレーネは少しだけ、ドレスの裾を上げると包帯を巻いた足を見せる。「自分で治療したのか?」 包帯を巻いた足を見て、驚くルシアン。「はい、湿布薬を作って自分で包帯を巻きました。シエラ家は貧しかったのでお医者様を呼べるような環境ではありませんでしたから。お祖父様には色々教えていただきました」「イレーネ……君って人は……」ルシアンはイレーネの置かれていた境遇にグッとくる。「でも……まさか、ルシアン様に気付かれるとは思いませんでしたわ」「それはそうだろう。俺がどれだけ、君のことを見ていると思って……」そこまで言いかけルシアンは顔が赤くなり、思わず顔を背けた。(お、俺は一体何を言ってるんだ? これではイレーネのことが気になっていると言っているようなものじゃないか!)だがいつの頃からか、イレーネから目を離せなくなっていたのは事実だ。「ルシアン様? どうされたのですか?」突然そっぽを向いてしまったルシアンにイレーネは首を傾げる。「い、いや。何でもない」「そうですか……でも、嬉しいで
高級ホテルの一室で、ベアトリスが台本を呼んでいると部屋の扉がノックされた。――コンコン「帰ってきたようね」台本を置くと、ベアトリスは早速扉を開けに向かった。ドアアイを覗き込むと、すぐにベアトリスは扉を開けて訪ねてきた人物を迎え入れた。「お帰りなさい、カイン。入って頂戴」「ああ」カインは頷くと部屋の中へ入り、疲れた様子でソファに座った。「お疲れ様、それで家の様子はどうだったのかしら?」カインの向かい側のソファに座ると早速質問する。「君は、あの家は空き家になっているだろうと俺に言ったが、人が住んでいたぞ? しかも女性だ」「え? 嘘でしょう?」その言葉にベアトリスは目を見開く。「嘘なものか。あの家には若い女性が住んでいた。ブロンドの長い髪が印象的だったな。……かなり美人だった。それに何故か警察官がいて、職務質問をされたよ」「そんな……あの家に人が住んでいたなんて……まさか、ルシアンは家を手放したっていうの? ずっとこの家は残しておくって約束してくれていたのに……」ベアトリスは悔しそうに唇を噛む。「俺が職務質問をされた話はどうでもいいのかよ……? まぁいい。どうせ君は俺には興味が無いのだからな。家を残しておくという話は2人が恋人同士だった頃のことだろう? とっくに手放していたっておかしな話ではないはずだ。そもそも彼を捨てたのは君の方だろう? ベアトリス……まさか、まだその男に未練があるのか?」眉をひそめるカイン。「……あの時は、別れたくて別れたわけじゃないわよ。彼の祖父は私のことを軽蔑して、私達の仲を反対していたのだから。それに、舞台のオファーは私にようやく回ってきたチャンスだったのよ」「だから、引き止める恋人を捨てて渡航したんだろう? 置き手紙一つだけ残して」「そうよ……だって、本当に必死だったのよ。失ったものは大きかったけど、私はこの通り成功したわ。それも今では世界の歌姫と呼ばれるほどにね」「それで今回かつての恋人がいた地『デリア』に来て、未練が募ってきたってわけか?」「別に未練だとか、そういうわけではないわよ!」ベアトリスはカインを睨みつけた。「だったら何故俺にあの家の様子を見に行かせた? まだ彼が自分を忘れられずに家を手放していないと考えたからだろう?」「……」しかし、その問いにベアトリスは答えない。「君は置
リカルドはとても焦っていた。(一体、あの状況は何なのだ……)自分で馬車を走らせ、リカルドはここまでやってきた。するとイレーネが警察官と共に見知らぬ青年と対峙している場面に遭遇したのだ。(何故イレーネさんは警察官と一緒にいるのだろう? それにあの青年は誰だ? 何やら問い詰められているようにも見える……とにかく、今は隠れていた方が良さそうだ)そう判断したリカルドは、大木の側に馬車を止めてると急いで身を隠して様子を伺っていたのだ。「おや? 帰って行くようだ」少しの間、見ていると青年はそのまま立ち去って行った。そしてイレーネと警察官は何やら話をしている。その姿は妙に親し気に見えた。(気さくなタイプの警察官なのかもしれないな……)そんなことを考えていると、警察官が自分の方を振り向いた。「……というわけで、そこの方。貴方もいい加減出てきたらどうですか?」(え!? バレていた……!? そ、そんな……!)しかし、相手は警察官。下手な行動は取れないと判断したリカルドは観念して木の陰から出てきた。「は、はい……」「まぁ! リカルド様ではありませんか? どうしてそんなところに隠れていたのですか? どうぞこちらへいらして下さい」イレーネが笑顔で呼びかける。「はい、イレーネさん」おっかなびっくり、リカルドは二人の前にやって来た。一方、驚いているのはケヴィンだった。「ひょっとして、お二人は知り合い同士なのですか?」「はい、そうです。こちらの方はリカルド・エイデン様。この家の家主さんです」イレーネは笑顔でケヴィンに紹介する。そう、イレーネから見ればリカルドはこの家の家主に該当するのだ。「え? 家主さんだったのですか!?」ケヴィンはリカルドを見つめる。「は、はい……そうです……」(家主? 確かに私はこの家の家主のような者だが……何故、ルシアン様の名前を出さないのだろう? ハッ! そういえば、お二人は世間を騙す為の結婚……つまり、偽装結婚をする関係だ。そして目の前にいるのは警察官。もしかして偽装結婚は犯罪に値するのだろうか? それでイレーネさんはルシアン様の名前を出さなかったのかもしれない!)心配性のリカルドは目まぐるしく考えを巡らせ、自分の中で結論付けた。「はい、私はイレーネさんにこの屋敷を貸している(今は)家主のリカルド・エイデンです」早
――16時「大分、痛みがひいたみたいね」イレーネは立ち上がると歩いてみた。「これなら農作業用具を片付けられそうだわ」エプロンを身に着けている時。――コンコン突然部屋にノックの音が響き渡った。「あら? 誰かしら? もしかしてルシアン様かしら」イレーネは少しだけ足を引きずりながらへ向かうとドアアイを覗き込み、驚いた。「え? ケヴィンさん?」何と訪ねてきたのはケヴィンだったのだ。イレーネは慌てて扉を開けた。「いきなり訪ねてすみません、イレーネさん」ケヴィンはイレーネの姿を見ると笑みを浮かべた。「ケヴィンさん、一体どうなさったのですか? まだ制服姿ということはお仕事中ですよね?」「ええ、そうなのですが……イレーネさんの怪我が気になってしまって、訪ねてしまいました。大丈夫ですか?」「ええ。自分で手当をしたので大丈夫ですわ」イレーネは包帯を巻いた足を少しだけ上に上げてみせた。「そうでしたか……それなら良かったです。あの、実はコレを届けたかったのです」ケヴィンは恥ずかしそうに紙袋を差し出してきた。「あの、これは……?」躊躇いながら受け取るイレーネ。「はい、ドライレーズンです。確か、今夜はレーズンパンを作るつもりだと仰っていましたよね?」「まぁ……それでは、わざわざ買って持ってきて下さったのですか? それではすぐに代金を支払いますね」イレーネが部屋に取って返そうとした時。「あ! 待ってください!」突然呼び止められた。「どうかしましたか?」「イレーネさん。お金なんて結構ですよ」「ですが、それでは私の気持ちが収まりませんわ」「それでしたら……あの、もしよければ……今度イレーネさんが焼いたパンを僕にも分けていただけたら嬉しいです。僕がパンを好きなのは御存知ですよね?」「そうですね。それでは今、持ってきますね。レーズンを入れていないパンなら、もう焼いていたんです」「本当ですか? ありがとうございます」笑顔になるケヴィンを玄関に残し、イレーネは家の中へ入っていった。「どうもお待たせいたしました。どうぞ、ケヴィンさん」紙袋にパンを入れたイレーネがケヴィンの元へ戻って来ると、差し出した。「うわあ……パンの良い匂いがしますね。それにまだ温かい」「はい、30分ほど前に焼き上がったところですから」「ありがとうございます。味わっ
「どうもありがとうございました」別宅の前に馬車が到着し、イレーネは馬車代を支払うと痛みを押さえて降り立った。「大丈夫ですか? お客様」男性御者が心配そうに声をかけてくる。「ええ、大丈夫です。ご心配頂きありがとうございます」「では、失礼します」互いに挨拶を交わすと馬車は走り去っていった。「……何だか痛みが酷くなってきたみたいだわ。早く治療しなくちゃ」痛む足を引きずりながら、イレーネは家の中へ入っていった――** 帰宅したイレーネは、湿布を作るために台所で材料を探していた。「え〜と、小麦粉にビネガーは……あ、あったわ」早速小麦粉をビネガーと混ぜて練り合わせると用意していたガーゼに塗ると、ガーゼを痛めた足首にそっとあてる。「つ、冷たい……でも我慢我慢」自分に言い聞かせ、包帯を巻きつけた。「……出来たわ。どうかしら?」早速イレーネは少しだけ歩いてみた。「だいぶ痛みは和らいだみたいね。やっぱりお祖父様直伝の湿布は効果があるわ」窓の外を見ると、そこには農作業用道具が畑の側に置かれている。「……こんな状態じゃなければ、マイスター家に戻っていたのだけれど……」買い物から帰宅後は、すぐに畑仕事が出来るように用具を出して出掛けてしまっていたのだ。「痛みがひいたら、片付けをしなくちゃ」イレーネはポツリと呟いた。****「今日もイレーネさんは別宅に泊まられるのですね」仕事をしているルシアンに紅茶を注ぎながらリカルドが尋ねた。「そうだ。……別宅という言い方をするな」ムッとした様子でルシアンがリカルドを見る。「それは失礼致しました」「全く……イレーネはあの家が好きなようだ。毎回楽しそうに行っているからな」「つまらなそうな顔をして出掛けられるより、余程良いではありませんか」リカルドの言葉に、ルシアンは呆れ顔になる。「あのなぁ、俺はそんなことを話しているんじゃない。……もしかして、あの場所には何かあるんじゃないだろうか?」「何かとは?」「それが分からないから、何かと言ってるんだろう?」「ルシアン様……」じっとリカルドはルシアンを見つめる。「な、何だ?」「本当に、イレーネさんのことを気にかけてらっしゃるのですねぇ?」「それは当然だろう? 何しろ彼女とは契約を結んだ婚約者の関係だからな。今月開催する任命式で、正式にイレーネ
イレーネがベアトリスをじっと見つめていた時。「サイン下さい!」突然イレーネの後ろにいた男性が前に進み出てきて、ぶつかってきた。「キャア!」小柄なイレーネはそのまま、前のめりに転んでしまった。はずみで持っていた買い物袋も地面に落ち、袋の中からリンゴがコロコロとベアトリスの足元に転がっていく。「まぁ! 大変!」ファンにサインをしていたベアトリスはリンゴを拾うと、イレーネに駆け寄ってきた。「大丈夫ですか?」イレーネに手を差し伸べるベアトリス。「は、はい……ご親切にありがとうございます」その手を借りてイレーネは立ち上がると、次にベアトリスはぶつかってきた男性を睨みつけた。「ちょっと! 貴方はレディにぶつかって転ばせてしまったのに、手を貸すどころか謝罪も出来ないのですか!?」「え? す、すみません!!」ベアトリスにサインをねだろうとした男性はオロオロしている。そんな男性を一瞥するとベアトリスはイレーネに笑みを浮かべた。「申し訳ございません。お詫びの印にサインをしてさしあげますわ。どれにすればよろしいですか?」「え? サ、サインですか!?」そんなつもりで並んでいなかったイレーネは当然戸惑い……ふと、閃いた。「あの、でしたらこのメモに書いていただけませんか?」イレーネは買い物メモをひっくり返して手渡した。「あら? これにですか?」怪訝そうな表情を浮かべるベアトリス。「はい、まさかこのような場所で大スターにお会いできるとは思ってもいなかったので他に持ち合わせがないのです。でも、額に入れて飾らせていただきます!」「まぁ。そこまで言って頂けるなんて嬉しいわ。ではこのメモにサインしましょう」ベアトリスはイレーネからメモを受け取ると、サラサラとサインをして手渡してきた。「はい、どうぞ」「ありがとうございます……一生の宝物にさせていただきますね」「フフフ。大げさな方ね」そのとき――「劇団員の皆様! お待たせ致しました! 迎えの馬車が到着いたしました!」スーツ姿の男性が大きな声で呼びかけてきた。「行こう、ベアトリス」そこへ黒髪の青年が現れて、ベアトリスに声をかけてきた。「そうね、カイン」そしてベアトリスはカインと呼んだ男性と共に、その場を去って行った。「あ〜あ……サインもらいそびれてしまった……」「やっぱりベアトリスは美
あの嵐の日から、早いもので3ヶ月が経過していた。イレーネは半月に一度は、リカルドから譲り受けた家に通うようになっていたのだった。「それでは、今日もあの家に行くつもりなのか?」朝食の席でルシアンがイレーネに尋ねる。「はい、行ってきます」笑顔で返事をするイレーネ。「だが、何もそんなに頻繁に行かなくても……」言葉をつまらせるルシアンにイレーネは理由を述べた。「あの家は空き家ですから、定期的に訪れて管理をしないと家の維持は難しいですから」「そうか……」正直に言うとルシアンは、イレーネにあまりあの家には通って欲しくは無かった。その理由はただ一つしかない。「心配しなくても大丈夫です。明日にはまた戻りますので」「……分かった。なら気をつけて行くといい」「はい、ルシアン様」イレーネは笑顔で返事をした。**** イレーネは今夜の食材を買うために、1人で町に出てきていた。「えっと……バターは買ったし……あ、そうだわ。ドライフルーツを買わなくちゃ。今夜はレーズンパンを作るんだったわ」買い物メモを確認すると、イレーネはポケットにしまった。「それにしても、今日の駅前は凄い人手ね。一体何があったのかしら?」駅前には大勢の人々が集結していた。しかも大騒ぎになっており、警察官たちまで警備にあたっている。「もしかして、有名人でも来ているのかしら?」好奇心旺盛なイレーネは、一度気になったものは確認してみなければならない性格をしている。「ドライフルーツは後で買えるものね……行ってみましょう」そしてイレーネは人だかりの方へ足を向けた。**「皆さん! 落ち着いて! 押さないで下さい!」「道を開けて下さい!」騒ぎの中心から大きな声が聞こえている。「サインして下さい!」中にはサインをねだる声まである。「え? サイン? もしかして有名人でも来ているのかしら?」イレーネは誰が来ているのか、見たくても人だかりが出来ているので確認することも出来ない。そのとき――「あれ? イレーネさんじゃありませんか!」不意に声をかけられた。「え?」驚いて振り向くと、警察官姿のケヴィンが自分を見つめている。「まぁ! ケヴィンさん、こんにちは。偶然ですわね」「こんにちは。もしかしてイレーネさん……見物に来たのですか?」「は、はい……。何事か興味があったの